初めまして、あるいは僕の秘密の世界へようこそ。
張本霧哉(はりもと きりや)です。
今、僕は東京・新宿にある小さなマンションの窓辺に座っています。窓の外には消えることのないネオン、遠くには闇に包まれた新宿御苑の緑。机の上には赤いマルボロの箱と、半分ほど残ったウイスキー。日本に長く住んでいると、たとえ個人のブログであっても、どこか「礼儀」を重んじる話し方になってしまう。でも今日は、そんな外側の殻を脱ぎ捨てて、僕のありのままの言葉で、自分という人間について話してみたいと思います。
あなたが今訪れているこのサイトは、僕の「プライベート・ライブラリー(私設図書館)」です。高尚な文学なんて置いてありません。あるのは、僕が好きなゲイ・エロティックな物語と、地面に散らばった僕の人生の断片だけ。クリックしてくれてありがとう。でも、一つだけ僕のわがままを聞いてください。この場所のことは秘密にしておいて。この街の誰にも、このURLを教えないでほしいんです。
僕の出生名は、とても静かな響きの「張靄(ジャン・アイ)」といいます。「靄(もや)」、つまり雲や霧という意味です。中国で生まれた時、両親が僕に託した願いでした。雲のように自由であってほしい、そんな思いだったのかもしれません。
人生が激変したのは2000年のこと。両親が日本で勝負することを決めました。あの時代、それは大きなギャンブルでした。彼らは先に日本へ渡り、僕は中国に残されました。湿り気を帯びた潮風が吹くアモイで短い時間を過ごした後、長沙にいる祖父母のもとへ預けられました。
長沙での数年間は、僕の性格の土台を作った時期でした。祖父はとても文人気質な人で、僕に書道や絵を教えてくれました。墨の香りに包まれて、祖父がパイプをくゆらす傍らで、僕は水彩絵の具が紙の上で滲んでいくのを眺めていました。才能というものがあったのか、幼稚園から小学校まで、僕の絵は省(中国の行政区画)の賞を総なめにしました。「この子は将来、芸術家になる」誰もがそう信じて疑いませんでした。
でも、僕の体の中にはもう一つの衝動が隠れていました。「走りたい」という原始的な欲求です。陸上競技場にいる時の僕は、別人のようでした。短距離走、走り幅跳び。耳元を通り抜ける風の音に、僕は魅了されました。小学校の時には市大会で優勝もしました。半分は「静」、半分は「動」。この矛盾した特質は、今も僕の中に残り続けています。
小学校を卒業し、僕は祖父母に別れを告げ、一人で横浜へ飛びました。久しぶりに会う両親、そして初めて踏む日本の土。横浜の海風はアモイよりも少し冷たく、僕の名前は「張靄」から、少しずつ「張本霧哉」へと変わっていきました。
横浜市立の中学校に通っていた頃は、最も迷い、そして最も熱かった時期です。言葉の壁、文化の隔たり。外国人の子供が馴染むのは簡単ではありませんでした。でも、スポーツの場に翻訳はいりません。
僕はソフトボールに夢中になりました。丸いボールを打ち返した瞬間、すべての悩みが消えていくようでした。必死に練習し、中学3年間で、チームは2年連続で神奈川県大会の決勝まで勝ち進みました。そこで初めて「仲間」の力を知り、「悔しさ」という感情を学びました。
高校では硬式野球に転向しました。日本において、野球は単なるスポーツではなく、一種の「信仰」です。僕の青春は、土と汗、そして監督の怒号の中にありました。目標はもちろん甲子園。高校球児にとっての聖域です。毎日日が暮れるまで練習し、手のひらはマメで硬くなり、膝にはいつも傷がありました。けれど残念ながら、兵庫県(甲子園)への切符を手にすることはできませんでした。
甲子園の夢は破れましたが、後悔はありません。あの3年間の酷暑と極寒が、僕の体を作り、意志を鍛えてくれました。そして、ある一つのことを悟ったんです。「努力しても結果が出ないことはある。けれど、その過程で刻まれた刻印(しるし)は、一生消えない」ということ。だから僕は今でも体を動かすことが好きだし、強く、生命力に満ちた肉体に惹かれるのかもしれません。
高校を卒業した後、僕は周囲と同じように大学へ行く道を選びませんでした。当時の僕の心には、早く自立したいという焦燥感がありました。外の世界を見てみたい、特に、夜の闇に隠れた「東京」という街を。
友人の紹介で、僕は東京の「夜の世界」に足を踏み入れました。新宿・歌舞伎町や六本木で働いたことがない人には、それがどんな生活か想像するのは難しいでしょう。僕は「ホスト」になりました。
この仕事は、野球よりもずっと難しかった。グラウンドの相手は目に見えるけれど、夜の街の人々の心は深い霧のようです。毎日午後から身支度を整え、仕立ての良いスーツを着て、魅惑的な香水を纏い、朝日が昇るまでクラブにいる。僕の仕事は、お客様を楽しませ、高価なシャンパンを一本、また一本と開けてもらうこと。
そこには高度なコミュニケーション能力と、人間心理への洞察が必要です。お酒の力で偽りを脱ぎ捨てる人々、脆い涙、そして誰にも言えない秘密。時には、単なる会話やお酒だけでなく、性的なサービスを提供することもありました。けれど、それを恥ずかしいと思ったことはありません。体も僕の一部。それが生きるためのリソースになるのなら、僕は厭いません。
一番苦しかった時期、ある中年男性の会社役員に援助(パトロン)をしてもらっていたこともあります。彼は生活費を援助し、僕の窮地を救ってくれました。その見返りに、僕は彼が求める時に寄り添い、癒やしを与えました。伝統的な道徳観では間違っていると言われるでしょう。でも当時の僕には、その蜘蛛の糸が必要だった。彼には今でも感謝しています。あの迷いの中にいた僕を、どん底から救い出してくれたのだから。
やがて僕は、野球で培った根性と天性のセンスで、店のナンバーワン(売れっ子)になりました。優雅にお酒を勧め、絶妙なタイミングで優しさを与える術を身につけたのです。
運命はいつも、予想もしないところでカーブを描きます。ホストとしての全盛期、あるアダルトビデオ(AV)の制作会社から声をかけられました。
「男優にならないか」と。
数日間考え、僕は契約することに決めました。僕にとってそれは、もう一つの形式の「芸術」と「運動」の融合に過ぎませんでした。僕は生まれつき性欲が強く、自分が「ハイパーセクシュアル(多淫症)」であることを隠したことはありません。セックスは僕にとって呼吸と同じくらい自然で、お酒のように人を酔わせるものです。
これまでに7本の作品に出演しました。4本はすでに世に出ていて、残りの3本は編集室にあります。カメラの前で最もプライベートな部分を晒すのは、最初は心理的な抵抗がありました。でも一度その状態に入ってしまえば、まるで一つのパフォーマンス、あるいは試合に挑んでいるような感覚になり、その快感は比類なきものでした。この仕事を卑下するつもりはありません。むしろ、自分の欲望に素直に向き合い、それを職業へと昇華させるのは、とてもクールなことだと思っています。
今の僕は、ホストとAV男優という二つの顔を行き来しています。昼の僕は静かで、夜の僕はワイルド。この二重生活は僕に充足感を与えてくれます。なぜなら、手にするお金はすべて、僕が汗を流し、努力して勝ち取ったものだから。
僕の恋愛についてもお話ししましょう。おそらく、多くの人が最も興味を持ち、そして理解しがたい部分だと思います。
僕には付き合って4年になる彼氏がいます。今、東京の小さな部屋で一緒に暮らしています。彼は高校の同級生で、僕の青春時代を知る理解者です。彼は今、プロのサッカー選手として、毎日ピッチの上で戦っています。
僕たちの関係は「オープン・リレーションシップ(開放的関係)」です。狂っているように聞こえるでしょう? でも、彼には彼女がいて、僕にはこの仕事とセフレがいる。お互いを束縛するのではなく、むしろこの率直さがあるからこそ、絆は異常なほど深まっています。家に帰り、すべてのラベルを脱ぎ捨てた時、僕たちはただ寄り添い合う二つの魂になります。お互いの苦労を理解し、お互いの選択を支持し合っているんです。
東京という冷たい街で、自分の過去を知り、現在を受け入れてくれる人がいる。それは、この上ない贅沢です。
もしあなたが、僕が一生夜の世界に浸っていると思っているなら、それは間違いかもしれません。
僕は今、歯科衛生士の資格を取るために勉強しています。なぜそれを選んだのか? おそらく、あまりにも多くの「腐敗」を見てきたから、何か清潔で、健康なものを守りたいと思ったのかもしれません。資格を取れば、もっと「まとも」な副業が持てる。それは、僕が社会の日常へと戻るための架け橋になるはずです。
そして僕の究極の夢は、十分なお金を稼いで世界一周をすること。長沙へ戻って、あの墨の香りが変わっていないか確かめたい。ヨーロッパへ行ってサッカーの試合を観たい。誰も僕を知らない場所へ行って、心からリラックスしたい。
僕は張本霧哉であり、張靄でもある。
絵を描く文系青年であり、バットを振るアスリートでもある。
優雅なホストであり、潔い男優でもある。
愛撫を愛し、酒を愛し、この混沌とした美しい世界を愛している。
この文章を書き終える頃には、グラスのウイスキーも空になりました。もうすぐ太陽が昇ります。東京にまた新しい一日がやってくる。
とりとめのない話をここまで読んでくれてありがとう。もしここで何かを感じてくれたり、あるいは単なる暇つぶしにでもなったのなら、光栄です。
忘れないで、ここは僕の図書館であり、避難所です。そっと来て、そっと去ってください。
良い夢を。あるいは、活力に満ちた一日を。